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月刊「致知1月号」特集:運命をひらくにインタビュー記事が載ります―ー発信するという事⓵

『発信するという事⓵』

10月 2本の取材を受けました。作品以外の媒体で想いを伝えることも発信するという事なのですね。とてもありがたいです。その1つが 月刊誌“致知”。初めて聞く・・・と思った。ところが私の人生に深く関わる本を出版していた出版社だったのです。

私は小学校の46年生の時音楽部で和太鼓をたたいていました。当時音楽部は女子のみの部活で運動会での演奏や文化発表会、地元のイベントに出演するなど花形の部活でとてもかっこよかったのを覚えています。音楽が得意だった私は私も入りたい!と顧問の大鹿先生に男子入部を直談判しに行きました。

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はれて男子5人は入部を許され、毎日が楽しかったです。 基礎うち、太鼓ばやし、豊年太鼓、篠笛の練習、三宅島太鼓、秩父屋台ばやし・・・・。毎日の積み重ねは身につくスピードも速い。みんなの前でたたいた時は大太鼓の音がみんなの腹の底に伝わるのがわかってワクワクしました。お客様が喜んでいる感覚が伝わってきたのを覚えています。6年生になり、大野木小学校オリジナルの“大野木ロック”ではセンターで大太鼓をたたきました。両うでを車輪のように回して2台の太鼓を打つこの曲が私は大好きでした。隣の太鼓をたたくわけだから全員の息が合わないとうまくいかない。本番でも失敗するかもしれないほど難しいのです。それぞれの音や動きががずれてくると大鹿先生は

パート練習をひたすら繰り返し、私たちは耳を使ってたたいてはいけないところに当たった音や、はねて2度うちしていないか感覚を研ぎ澄ませました。そして夢中で練習していると知らないうちにできあがっていきました。私自身がみんなをまとめたとか、声を掛けたとかという記憶はないので、みんなの一致団結の力に引きずられたのかなと思います。(笑)

その恩師の大鹿先生が 私にくださった本『中村久子の生涯 四肢切断の一生』が致知出版社の本だったのです。

受傷から3年後、私は高校1年生となり次のように作文につづっています。

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「今、自分が思うこと」   1C組 水上卓哉

 私は自分がとてもなさけないと思います。なぜなら、私は、手足両方があるのにもかかわらず、私は甘えてばかりです。どうしてか…。中村久子さんの本を読みました。中村久子さんは小さなころばい菌のために肉が焼けて骨が腐る突発性脱疽となり両手両足切断、さらに10歳の時いったん目が見えなくなりました。久子の母は一緒に滝つぼにはまり自殺しようとも考えました。が、久子の

「こわいよ。」

という言葉に、ハッと我に返り久子と共に生活をする決心をしました。それから母に、久子はあらゆることを一人でできるように厳しくしつけられ、母はこれができるまで猛特訓をし続けました。手取り足取り教えたのではなく、何も教えなかったのです。できるまでやらせたのです。包帯にはしをはさみご飯も食べたのです。針は口にくわえて縫い、麻糸をしばる時は舌が切れるくらいまで練習を重ねてできるようになったのです。トイレは口にぞうきんをくわえてそうじしました。

 この本は実はいっぱい苦労をかけた大鹿先生からもらった大切な本なのです。その先生は部活の先生でした。私はその先生がとても大好きで、先生からは愛情と優しさを教わりました。そして去年この本をもらったのです。その先生は和太鼓を教える先生でした。私と先生はよく話が弾みました。滝廉太郎の作曲したたった一つのピアノ曲「憾み」の話などよくです。

私は最初「こんなに長い話読めるかよ・・・。」と思い読むのをさけていました。しかし母はそういうわけにもいかず、私の横でいきなり読み聞かせを始めました。そばでパソコンをしていた私はどんどん引き込まれていったのです~(この後のコピーを紛失してしまいました)

でも、この時衝撃を受けたことだけは鮮明に覚えています。先生が私に次の一歩のヒントをくださったと思います。私はこんな風にたくさんの人の心に育てられたのだと思います。

さあ、お手もとに,月刊致知1月号(2020121日発行)がある方はぜひご覧になってくださいね。


by atelier-takuya | 2020-12-01 12:51